昭和48年05月06日 特別奉修委員



 真の信心を頂きたい。真の信心を分からせて貰いたいと、お互い願っておるわけですけれども。ここからが真の信心というそこまでが、様々に稽古をさせて貰って、ここからが、愈々真の信心になっていくんだと言う所があるんですね。そこん所を今日お願いさせて貰いよりましたらね。鬼の面をかぶって、今度は鬼の面を後さんこうやって、狐の面をこうやって頂くんですよ。
 ですから例えば、神様が場合には鬼のような面をかぶって、出て見えることもある。また場合によっては狐というのは、騙しなさる場合もある。私そんなふうに頂いたんです。ですから、例え親鸞の言葉の中にもありますように、例えすかされ参らせてもと言う様な所、すかされるて言うのは騙されてもと言う事てもというそのそれを、神様の御働き神愛であると言う、この頂き方がすっきり出来た所からです、真の信心ち言う。どんなに例えば騙されても。
 又はどんなに憎まれても、又はこなされてもと言うかね、鬼の様なというです、だからそれをねあの人はもう鬼のごたる人ち言うなら駄目なんです。その向こうにこう取ると、神様の姿を感じれるところまでを、様々ないうならば五年十年二十年と信心させて頂いておるうちに、確かにそうだなという確かめを、まず頂かなきゃいけん。だからそこまでは、真の信心の過程なんですね。そこからが真の信心。成程鬼じゃなかった、狐じゃなかった、あれが神愛の本当に表れであったと言う様なおかげを頂く。
 昨日喜代司さんが、その和賀心のお宮が立派になる事だと言う事を言ってますがね。それは、具体的にどう言う事になったら、心の神様が立派になるかというと、親先生が言われる成り行きを徹底、大事にする以外にはないと言ってますよ。こりゃもうどの位ここでは、繰り返し言っておるか分かりませんけれども、それに徹する以外にはないわけです。だから成り行きを、この事は大事にするばってん、この事は大事にしないて言う、もう鬼は嫌狐は嫌ちゅうごたるふうなことでは、いけんて言う事ですね。
 徹する事以外にはないと。そこからがやっぱ真の信心。昨日教主様のお歌の中に、こんなのがあります。「あえて苦言を呈すると言える言葉かぶり おのが不満を晴らすこの人」というのがありますね。よく言いますよねあんたに、私は苦言を呈する。その人にいかにも親切に言うようにあるけれども、実際は言葉かぶりということを、まぁ冒頭にと言う意味でしょうかね。冒頭ににたとえば、その人のことを親身に思うておるから言いよるように言いよるけれども。
 そうじゃなくて、自分の不満を晴らすためにという訳ですね。「如才なく振舞う人の動く目に 口と腹との異なるみたい。」とありますね。如才なく振舞う人のこりゃもう本当に、私どもが例えばそれが鬼じゃろうが、蛇じゃろうが狐じゃろうがですね。それを神愛と受けていくための、信心のまたそういう稽古をさせて頂くためには、私どもはここに二つ読ませて頂いた歌は、こう言う様なものがあったら、もう駄目是に取り組まなければ、駄目ですね。やっぱりそういう精進にですね。
 一つの楽しみが出来て来るのじゃないでしょうかね。徹底だから私喜代司さんに、本当に素晴らしいと、こう言うていいえ実際は、合楽には月に一辺しか来ませんしね、もう三日前ぐらいから、もう一生懸命になりますとこう言うんですね。お話せんならんから。私は、それが本当の実感だろうと思うんです。ですから四、六時中ずっと、喜代司さん徹底しとるちゅう事じゃないと言う事です。
 例えて申しますとこの頃から、家内子供を連れて宮崎に遊びに行って、今日は金捨てげ行く所、捨てげいくちと言うてそるけん、小母さんば連れて行って、その小母さんがほんならあんた、川にでんなんでん捨てらいいじゃんの、そげなこつするとあの公害になるちゅうた。ほんなら小母さん、あんたがお金をくれちゅうたっちゃ、絶対あんたにゃ上げませんち、いくら捨てる金でも。
 だからいつも捨てる気であると言う事に徹底しておる事だ。もう金ちゅうもんな、こうやって身に付けるもんじゃなくてね、何時でもどこででも捨てられる。けども公害になる様な事には捨てないち言う。お札ば川ん中に捨てよると公害になるち言う。お婆さんが貧乏しちゃる。だからあなたにあぐると、あたが貰い癖が付いてから、却ってあんたが、乞食根性が付いてから、却って公害になる。だからやらん。そればってん捨てる気持ちでおるとこういう言うわけです。
 だからそういうものも確かに持っておるです。けども実際ほんなら実際は、非常にこすい人だと言う事ですね。たとえばお初穂でももう惜しゅうしてこたえんちゅうごとあるお初穂ですこの人の場合。そげんここに捨てるなら、絶対生きる事は分かっとるです。けども捨てきらんです。だから、今言うように、徹底するということもですね、あの、昨日、これはもうほんとにあの、本当のことを言うたんだろう。もう親先生あんたが素晴らしいと。いや実を言うたらそげん素晴しゅうはないですよと。
 こうやって合楽には一辺しかこんし、そん時お話せんならんから、三日前ぐらいから、本気で取り組むとこう言うんです。だからこれが五日、六日段々多くなっていってですたい。その事がどのくらい素晴らしい事かて言うことを、それでもやっぱ体験しよるわけですからね。だから問題はね、一日でもいい二日でもいい、やっぱ徹底してみる事ですね。そしてそれが、どんなに素晴らしい事かと言う事を四、六時中にこう広げていけばいい訳ですからね。
   どうぞ。